社会というのは人間の集団ではあっても、ただ集まっているというだけのものではな く、互いに交渉する人々の集まりである。①その社会の中で我々は自分という意識を もっている。。自分が自分を意識するということは、自分が自分に対面するということで ある。対される方の自分は②他者と者として対されるわけである。人間は喜んでいるとき、 「われを忘れる」こともあるが、たいていは自分が喜んでいること、怒っていることを 知っている。真珠がほしいとき、そのほしがる自分をよそ目に見ているかのようであ る。もしほしい思いにわれを忘れて商店の真珠に手が伸びる大人があったら、③それは 普通ではない。このように、自分という意_ があって、その自分を他者の立場におくこ とができる精神の働きがあるから、④実際の他人人を自分に対する他者として見ることが できるのである。自分という意識がはっきり現れるのは、実際の他人を他者と見ること ができるようになっていることを意味する。⑤ 自分の内側における自他の分化は、、外側 における自分と他人の確立と同時といってよいであろう。
「自分」と「他者」というのは、それ自体抽象的なものである。いまここにいる一時的な自分と、反省された「自分」とは全く同じというのではない。「自分」という意識は生きて いる限り続いている。それがなくなることは、全くの異常あるいは死を意味する。変化 する自分を通して変わりなく保たれているのが「自分」の意識である。このことは「他者」 の意識についても同様である。
このように「自分」を意識し、他人を自分に対する「他者」と見ることのできる精神は、 また事物をも自分に対する「他者」の立場におくことができる。⑥事物が自分に対する 「対象」になるのである。その「対象」はこれまたその場に存在する特定の一物を指してい るのではなく、抽象的である。具体的な事物を通して抽象的な「対象」を捉え、その「対 象」が把握されて個々のものに対して、⑦それとしての知覚が生ずる。
自分の内における自他の意識の確立が、人間の意味世界を成立させる基本となるもの である。⑧人間の社会の成立は、このような構造の精神機能に支えられている。そこで 人間は本質的に社会的存在であるということができる。人間は社会的動物と言われる が、それは実際に社会をなしているからそのように言われるというばかりではないのである。言葉がまた、いま述べた精神の抽象的なはたらきと不可分の関係にある。
話すということは「自分」と「他人」の間になされることであり、そういう本来社会的な ものと言われる言葉を所有することができるということは、実は人間が本質的に社会的 存在であることを意味するのである。社会と、個人あるいは精神との関係については、 このような点にまでさかのぼって考え、現実に人間社会を成立させている根本のものと して、それ固有の構造の精神を捉えなければならない。そういう精神の支えのないとこ ろに組織あるいは「社会」が存在することはできない。現実に個人が特定の社会の中にい るその現実面だけに留まってしまって人間を社会的動物と想定するのであったら、⑨兰 れは人間理解の不徹底さを示すものではなかろうか。
(築島謙三『ことばの本性』により/書き換えあり)
ここの②他者はどんな意味か。